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山とかトレランとか

イン・ア・ゲームスケープ ヴィデオ・ゲームの風景,リアリティ,物語,自我

東京オペラシティにあるICCでゲームのアートの展示を見た。

http://www.ntticc.or.jp/ja/exhibitions/2018/in-a-gamescape/

風景、リアリティ、物語、自我がテーマらしいが、風景は結局リアリティの問題ではないだろうか? ゲームの中の風景がどのように形作られているか、その意図は結局リアリティに帰着できると思うし、最初に入ったところに書いてある谷口暁彦の文章にもテーマはリアリティ、物語、自我の3つだとあった(と思う)。

ゲームは概ね現実を模倣しようとするが、ゲームとして作るからにはそこには異なったリアリティの有り様が存在していて、そういったゲームと現実のリアリティの差が、例えばゲームを普通とは違ったプレイをしてみせることで浮かび上がってくる。

マリオのゲーム画面を放置してしばらくするとマリオが眠り始める。その時間の流れ方は明らかに普通のゲームプレイとは異なりゆったりとした緩やかなもので、思わずゲームであることを忘れそうになるが、一方でそれは現実には存在しない架空のものである《スーパーマリオ・スリーピング》。ここで言いたいのは、現実とは異なるリアリティというものの存在がゲームによって提示されているということだろう。

現実とは異なるリアリティ、という一見矛盾した考え方は私達に何をもたらすのだろうか?《dead-in-iraq》という作品は、オンラインのFPSゲームの中のチャットメッセージに、イラク戦争で死んだ兵士の情報を淡々と書き込んでいくというパフォーマンスを記録したものである。

> デラップは,ゲームの中での死と,現実の死を重ね合わせることで,現実の社会における戦争や銃社会について描いています(公式サイトより)

ゲームでの死に対して現実での死を対抗させることで、例えばゲームの軽薄さ、現実の重みを知るべきだ、というPTA的な主張をしたいわけではもちろんない。ここではむしろ、ゲームの中の死という「リアリティ」に現実の死を重ね合わせることで、イラク戦争という悲惨な現実を理解するための、異なる糸口が示されていると考えるべきだ。それはドキュメンタリーや映画などとは違う、異質だが、より主体的な戦争の追体験として機能するものだった。というあたりのことをなんとなく理解して(大体ここに書いたことは入り口の文章にも書いてあったと思う)、結構面白いと思った。

それ以外の、Playablesのやつとかは時間をかけてプレイしたが、よくわからなかった。ラファエル・ローゼンダールに似ているけど、アニメーションの面白さとインタラクションの面白さが混ざってしまって、(自分にとっては)どうもピントがずれている印象を持った。あとゲームをそのまま展示しているやつについては展示する必要あるか?と思ってしまった。Mountainとか、確かにそれっぽいけど。。。《エディス・フィンチの遺物》も面白いと思ったけど、リアリティを主題にした作品に比べて、展示の中で位置づけが今ひとつ伝わってこなかった。

最近「そろそろ左派は経済について語ろう」を読んでいて、本の中では左派がアイデンティティ・ゲームに腐心してしまったことが経済という下部構造の忘却につながったということが散々書かれており、それのせいでアイデンティティの問題に今ひとつ関心が持てない、というのが鑑賞の態度に強く影響してしまった。まあ、展示とはほぼ関係のない話。